大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京地方裁判所 昭和48年(ワ)2686号 判決

原告

甲野一郎

右訴訟代理人弁護士

中平健吉

ほか二名

被告

学校法人青山学院

右代表者理事

大木金次郎

右訴訟代理人弁護士

本多彰治郎

主文

一  原告の請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一  申立

一、原告

1  (第一次請求)

被告が原告に対し、昭和四八年度青山学院大学大学院文学研究科聖書神学専攻修士課程の入学試験施行義務を負担していることを確認する。

2  (第二次請求)

被告は原告に対し、金一〇〇万円およびこれに対する昭和四八年八月一八日から完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。

3  訴訟費用は被告の負担とする。

二、被告

1  (第一次請求に対して)

本件訴を却下する。

2  (第一・二次請求に対して)

原告の請求をいずれも棄却する。

3  訴訟費用は原告の負担とする。

第二  主張

(請求原因)

一、第一次請求(入学試験施行義務確認請求)

1 原告は、昭和四五年三月東京大学法学部学士課程を修了した後、キリスト教の伝道者となる目的で、昭和四六年四月被告の設置する青山学院大学(以下被告大学という。)の文学部神学科(以下単に神学科という。)三年に編入学し、同四八年三月その課程を修了した。

2 原告の右編入学に際して原告と被告間に成立した就学契約は、原告において神学科の課程を修了したときは、被告は原告に対し被告所定の入学試験に合格することを条件に、被告大学の大学院文学研究科聖書神学専攻修士課程(以下単に修士課程という。)の履修をさせるとの特約を含むものである。

したがって、被告は神学科の課程を修了した原告に対し、修士課程の入学試験を施行すべき義務がある。

3 ところが、被告は昭和四七年一一月二一日その理事会において、昭和四八年度以降神学科および修士課程の学生募集を停止する旨決定(以下、本件理事会決定という。)し、以来その入学試験を行わず、かつ原告に対する前記入学試験施行義務の存在を争つている。

4 よつて、原告は、被告が原告に対し昭和四八年度の修士課程入学試験施行義務を負担していることの確認を求める。

5 原告と被告間の就学契約が、前記主張の特約を含むと解すべき根拠は次のとおりである。

(1) 伝道者養成のための神学教育の特殊性

キリスト教伝道者は人間の深渕に存在する問題を取扱うものであるため、すぐれて高度の人格形成を必要とし、またその修得すべき神学は、歴史的にみて各時代の最高の人智を結集させて積み上げられてきたものであるから、それを履習するには哲学、歴史学、外国語(ギリシヤ語、ヘブル語、ラテン語等)の素養と長期間にわたる厳しい研鑚が必要であるのみならず、今日の時代における人間の問題を理解し、適確な宣教・指導をするために、神学一般の修得のほか、相当程度の社会科学、自然科学の素養をも必要とし、更にキリスト教にとつて異質な文化を有する我国の思想、宗教をも学ばねばならない。そして今日の伝道者の職務は伝統的な礼拝説教と礼典執行にとどまるものではなく、牧会的指導(信徒の生活的精神的問題の指導)等の社会的活動も必要であり、このような新しい職務のための素養の修得も求められるのである。

右のようにキリスト教の神学研究および伝道者養成のための教育には大学の他の学部における教育と比較して特殊性があり、これを施すためには、学士課程における四年間の修業では不十分であり、少くとも更に二年間の修士課程を含めた六年間とすることが必要である。

(2) 神学科および修士課程のカリキュラムの特殊性

被告は、いわゆるキリスト教主義に基づく教育を行う施設として明治以来古い伝統を有するものであつて、昭和二四年私立学校法の制定に伴い同法による学校法人として被告大学を設置したうえ、文学部にキリスト教学科を置き、その後、昭和三〇年に前記大学院修士課程を、昭和三四年に前記大学院博士課程をそれぞれ設けたが、昭和三六年四月キリスト教学科を神学科と改称し、これに伴い、神学科の教育機関としての目的が、伝道者の養成に重点をおきながら、キリスト教教育関係事業に携わる者の養成をもあわせて行うことにあることを明確にし、神学科学生のうち、伝道および神学研究を志す者はAコースを、キリスト教教育関係事業に携わることを志す者はBコースを選択して、それぞれ区分された課程を履習することとした。そして、Aコースの修業は、伝道者養成、神学研究の前記のような特殊性に鑑み、神学科と修士課程とをあわせて一貫したカリキュラムを組み修士課程までの六年間を通して履習することにより完成される仕組みとしているうえ、これを前提として修士課程進学者を受け入れるべき定員が定められていた。

もつとも、被告は昭和四五年四月神学科のA・B両コースの区別を廃止し、これに伴つてカリキュラムが改編されたが、その理由は、学生の履習課目の選択の幅を拡大させるとともに、従来Aコースにおける履習課目が学生に厳しすぎたため、その一部を修士課程に移行する点にあつたものであるから、右A・B両コースの区別の廃止は伝道および神学研究のための教育が神学科から修士課程までの六年間を一貫してなされるとの前記原則に何ら変更を加えるものではなかつた。

(3) 伝道者志望者と修士課程の関連

被告大学の神学科および修士課程は昭和三七年以降、日本キリスト教団認可神学校であるが、同教団の補教師検定試験において、修士課程修了者と神学科修了者との間にはその受験科目の数に差異があり、この点においても大学院修士課程までの修了は伝道者志望と密接な関連を有している。

(4) 被告の外部に対する表示行為

被告は、右のように神学科と修士課程とを通して一貫教育の方針をとつていることに照応して遅くとも昭和三七年ころから原告が神学科に入学するまでの間、被告作成の種々の公刊物を通じて、神学科入学志望者および同科在籍者、その他の者に対し、伝道および神学研究を志望する者は、被告大学において神学科だけではなく、修士課程まで六年間の履習をすることが原則である旨表明してきた。すなわち、入学案内冊子「青山学院大学」には「学生は原則として修士課程まで六年間の課程を修めることが望まれる。」と、同「青山学院大学文学部神学科案内」には「学部は将来教会における直接の伝道あるいは神学研究を志す者と、キリスト教教育関係の事業を志望する者のために備えられている。前者は原則として修士課程まで六年間の課程を履習し、日本キリスト教団に属する者は補教師検定受験資格を得る。」と、同「神学科のしおり」、「神学科通信」には「直接伝道および神学研究を志す者は内規として修士課程まで六年間履習すること」と、「授業要覧(昭和四四年度)」には「伝道及び神学研究を志望する者(大学院を含めて六年コース)」と、それぞれ記載されている。

原告は、東京大学法学部卒業後、伝道者となるに必要な神学教育を受けるとともに日本キリスト教団補教師検定試験受験資格を得るため被告大学院修士課程への入学を希望し、昭和四六年二月頃被告大学の神学科主任に受験手続を尋ねたところ、同主任から、伝道者となるのであれば、被告大学は神学について学部と大学院をあわせて一貫教育をしているので、当初から修士課程に入学するよりも、まず神学科で神学についての基礎教育を受けてからにした方が十分勉強することができると説明されて神学科三年生に編入学することを勧められたことと、前記被告大学の公刊物の記載とにより、神学科修了後修士課程の入学試験に合格すれば、修士課程までの一貫した伝道および神学研究のための教育を受けることができると信じて神学科に入学したものである。

(5) 以上の事実、特に、伝道者養成および神学研究のための教育が神学科における四年の修業では足りず、修士課程の履修を終えてはじめて完成されるものであり、被告もその旨を公示していたこと、伝道者または神学研究を志望する学生は右公示を信頼し、神学科及び修士課程を通じ一貫した伝道者養成および神学教育が受けられると信じて神学科に入学することを考慮すれば、被告と神学科学生との間の就学契約は、被告において神学科に入学した学生に対し、主として伝道および神学研究のための教育ならびにキリスト教教育関係事業のための教育を施すことのほか、伝道および神学研究を志望する学生については、前記2記載の特約を含むものというべきである。

二、第二次請求(損害賠償請求)

1 仮に、原告主張の就学契約の特約が認められず、第一次請求が容れられないとしても、後述のとおり、被告が修士課程学生の募集を停止したことは違法であつて、原告は第一次請求の原因一、5の事実に基づき、被告大学の修士課程を終えて日本キリスト教団の補教師たる資格を取得し得ると期待していたのに、違法な募集停止により修士課程の入学試験を受験することができず、その就学が不可能となつて、右期待を侵害され精神的損害を蒙つたから、その賠償として慰藉料金一〇〇万円とこれに対する不法行為の日より後である昭和四八年八月一八日から完済に至るまで年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

2 募集停止の違法

(一) 手続的違法

被告大学大学院の運営は学校教育法施行規則四条所定の学則である「青山学院大学大学院学則」に基づいてなされているものであるところ、同学則によれば、大学院委員会(九条)および研究科委員会(一一条)が右各条項所定の事項につき審議することとなつている。

そして、大学院委員会および研究科委員会は、大学自治と教学権尊重の原理に基づき、教学にあたる教授等によつて大学院の運営を行うべく設置されているものであるから、大学院の教学に関する事項は両委員会において審理すべきものであり、本件のごとき修士課程の学生募集停止は九条三、四項および一一条一、四項に該当し、それぞれの委員会の審議事項であることは明白である。

しかるに、被告理事会は右両委員会の審議に付すことなく本件理事会決定をしたものであるから、右決定は学校教育法施行規則四条、前記学則九条、一一条の規定に反して違法であるといわなければならない。

(二) 実質的違法

被告の理事会が本件理事会決定をしたのは、被告の院長その他の理事が神学科の教授らのキリスト教に対する信仰、見解をいわゆる「造反神学」であると断じ、青山学院のキリスト教教育を右のような造反神学から防衛することに理事会の使命があるとの方針をたて、神学科関係(大学院を含む)の学生募集を停止することによつてこれを廃止の余儀なからしめ、やがては神学科教員を被告大学から追放しようとの意図によるものである。

すなわち、被告の理事会は昭和四三年から四四年にかけて生じた被告大学における紛争において神学科の教授らがこれを使嗾していると誤断し、嫌悪していたのであるが、キリスト教神学に関しては、聖書を伝統的解釈の枠の中にとどめるとともに、キリスト教を社会と関係のない人間の内面のみにかかわる宗教と理解する見解を是とする立場に立ち、神学科の教授たちがこれと異なり、聖書を根源に立ち帰つて理解し、かつキリスト教を社会の問題との関連において考察しようとの見解に立つて、キリスト教の現代的解釈を試みるのを「造反神学、闘争神学、雑神学」であるとして嫌悪し、これらの教授らを被告大学から排除しようと決意して前記の挙に出たものである。

もとより、現代のごとく価値の多元化がいわれる社会においては、世界観、社会観も人によつて相違することが避けられないのであり、キリスト教神学や大学紛争に関する考え方もまたその例外ではない。

従つて、経営権を有する理事会と教学の実際にあたる教員との間に考え方の差異を生ずることがあつたとしても止むを得ないところであつて、そのような場合、経営権を有する理事会が教学の内容に干渉したり、あるいは自己の持つキリスト教観、大学観を絶対であるとして、これと異なる教学を行つている学科を廃止するなどということは、学問の自由が自発的精神によつて裏付けられることを宣明するとともに、宗教に関する寛容の態度を教育上尊重すべきことを明示している教育基本法二条、九条に照らして許すべからざるところである。

しかるに、被告の理事会は前記のとおり、キリスト教神学や大学のあり方に対する見解の相違を実質的理由として前記学生募集停止の措置に出たものであるから、かかる措置は教育基本法の前記規定、学問の自由、宗教の自由、教学の自発性に対する不当な侵害である点において違法といわなければならない。

3 前述したように、原告はキリスト教の信仰に生きる伝道者となることを志し、被告大学において神学科と修士課程をあわせ六年間の一貫教育を行うことを公示し、かつ現実にもそのような方針に基づいて特色ある伝道者養成教育を行つていたので、神学科および修士課程を履修し、日本キリスト教団における前記のような受験資格を得ることを期待して、神学科に入学したのである。

右のとおり、被告の公示と被告大学における教育の実際によつて、原告が前記の期待を抱いたのは当然であり、このような期待は大学の公共的性格からして法律上保護すべき利益というべきであつて、被告もこのような期待を抱く者があり、したがつて、学生募集の停止が右期待を侵害することを当然認識していたか、少くとも認識し得たものであるから、原告の前記損害を賠償すべき義務がある。〈以下事実欄省略〉

第三  証拠関係〈省略〉

理由

一被告の本案前の主張について

被告は、被告大学の昭和四八年度学事暦は昭和四九年三月をもつて修了したから、昭和四八年度修士課程入学試験施行義務はもはや存在し得ず、右義務の確認を求める原告の訴は、過去の権利関係の確認を求めるものであり不適法であると主張する。

しかしながら、原告の訴旨は、要するに神学科編入の際における就学契約には、原告が神学科を修了したときは、入学試験に合格することを条件として、修士課程での履修をさせるとの特約があつたところ、原告は神学科を修了したから、被告は原告に対し修士課程の入学試験を施行すべき義務があると主張して、その確認を求めるに帰するものであることは明らかである。すなわち本件訴は特に昭和四八年年度という特定年度の入学試験に限定してその施行義務の確認を求める趣旨とは解されず、右年度を掲記したのは、原告が昭和四七年度をもつて神学科を修了したので、それに続く昭和四八年度は被告が義務の履行としての原告のために入学試験を施行し得べき最初の年度として、履行期を示す程度の意味においてしたに過ぎないものと解すべきである。

してみれば、本件訴は結局履行期が到来した被告の義務が未だ履行されずに現在も存続するとの理由の下に、その確認を求める趣旨に帰するものというべきであつて、そうである以上、過去の権利関係の確認を求めるというにはあたらないから、被告の前記本案前の主張は失当であつて採用することができない。

二第一次請求について

1  原告が昭和四五年三月東京大学法学部学士課程を修了して、昭和四六年四月被告大学の神学科三年に編入学し、昭和四八年三月その課程を修了したこと、被告が昭和四七年一一月二一日の理事会において、昭和四八年度以降被告大学の神学科および修士課程の学生募集を停止する旨の本件理事会決定をして、その入学試験を行つていないことは、当事者間に争いがない。

2  原告は、原告が被告大学に編入学する際に成立した就学契約には、原告において神学科の過程を終了したときは被告は原告に対し被告所定の入学試験に合格することを条件に修士課程の履修をさせる特約が含まれていると主張し、右特約を根拠に修士課程入学試験施行義務の存在することの確認を求めるので、以下、右特約の存否について判断する。

(一)  原告が右就学契約に右のごとき特約が含まれていると解すべき根拠として主張する請求原因一、5の事実のうち、(1)伝道者養成のための神学教育の特殊性に関する一般論、(2)被告がいわゆるキリスト教主義に基づく教育を行う施設として明治以来古い伝統を有し、昭和二四年私立学校法制定に伴い、同法による学校法人として被告大学を設置して、文学部にキリスト教学科を置き、昭和三〇年大学院修士課程、ついで同三四年大学院博士課程を設けたほか、同三六年四月キリスト教学科を神学科と改称し、教育機関としての神学科の目的を伝道者の養成に重点を置きながら、キリスト教教育関係事業者の養成もあわせ行うことを明確にし、また神学科にはAコース、Bコースの区別があつたが、右区別は昭和四五年以降廃止されていること、(3)被告大学の神学科および修士課程が昭和三七年度以降日本キリスト教団認可神学校に指定されていて、同教団の補教師検定試験において、修士課程修了者と神学科修了者との間で原告主張のような受験科目に差異があること、以上の事実は被告においても認めるところである。

また、〈証拠〉を総合すると、前記のとおり被告大学の神学科および修士課程が昭和三七年に日本キリスト教団認可神学校に指定されたのは、神学科の教育目的を伝道者の養成に重点を置くことにしたのに伴つて、日本キリスト教団において伝道牧会に従事するために要求される資格のうちの補教師の検定試験について、神学科または修士課程修了者が、日本キリスト教団教師検定試験規則に定める受験料目の一部免除の適用を受け得るための目的から出たもので、その目的にそつて、神学科のAコースは将来キリスト教の伝道と神学の研究を志望する者にとり、日本キリスト教団の補教師資格を取得するために履修しておくことが望ましいとされる科目を中心にカリキュラムが編成され、Bコースはキリスト教教育関係事業に携わることを志望する者が履修するのを相当とする科目を中心にカリキュラムが組まれていたこと、また修士課程も伝道者養成目的を基礎にしたカリキュラムが組まれ、神学科Aコースの科目の履修を前提としたものであつたので、神学科内部ではこれを伝道志望者のための六年コースと称し、伝道志望者には修士課程までの進学を勧奨していたことが認められ、この認定に反する証拠はない。

しかし、右の争いない事実および認定事実のみをもつてしては原、被告間の就学契約が原告主張の特約を含むものと断ずるに足りないことは多言を要しないというべきである。

(二)  ところで、被告大学の入学案内「青山学院大学」および「授業要覧(昭和四四年度)」にそれぞれ請求原因一、5、(4)の原告主張のような記載があることは当事者間に争いなく、〈証拠〉によると、「一九七〇年(昭和四五年)度青山学院大学文学部神学科案内」には「学部は将来教会における直接の伝道あるいは神学研究を志す者と、キリスト教教育関係の事業を志す者のために備えられている。前者は原則として修士課程まで六年間の課程を履修し、日本キリスト教団に属する者は補教師検定受験資格を得る。」との記載があること、〈証拠〉によると、「一九六三年(昭和三八年)度神学科のしおり」および「昭和四〇年一二月発行神学科通信第九号」には、それぞれ「伝道と神学研究を志す者は、修士課程まで六年間履修すること」との記載があることを認めることができる。

しかしながら、入学案内冊子「青山学院大学」に記載されている「学生は原則として修士課程まで六年間の課程を修めることが望まれる。」との文言が何ら原告主張の特約を認定するに資するものでないことは、その表現自体から明らかであり、また前記のその他の刊行物は、いずれも原告の神学科入学より前の年度に関するものであることを一応おくとしても、その前示各記載が神学科入学者のうち伝道または神学研究を志望する者について修士課程までの履修を義務づけられている旨の予告の趣旨には解されないのと同様、被告において伝道また神学希望者に対し修士課程までの履修をさせる義務を負う旨の意味に解することも到底できないといわなければならない。ふえんすれば、前記「青山学院大学文学部神学科案内」の「原則として修士課程まで六年間の課程を履修し、日本キリスト教団に属する者は補教師検定受験資格を得る」との前記の記載を例にとつてみても、右記載は、原則として修士課程の履修をすることによつて、日本キリスト教団に属する者は補教師検定受験資格を取得することができるとの趣旨に解するのが文理上自然であつて、右趣旨以上には出ないものというべきである。

(三)  そのうえ、(1)〈証拠〉を総合すると、神学科におけるA・Bコースの区別は単なる科目履修上のものであつて、学生はいずれかのコースに所属してそのコースの科目とされるもののほかは履修できないとするような制度上の区別ではなく、いずれのコースの科目を履修するかは学生の意思によつて選択し、初めはAコースの科目を履修しながら後になつてBコースの科目を履修することも許され、要するに所定の単位を取得すれば卒業できるものであること、修士課程への進学はBコースの科目をもつて卒業単位を充足したものでも可能であるのみならず、Aコースの履修者と受験資格に区別はなく、また他大学の神学科修了者は勿論、神学科以外の大学卒業者でも所定の試験に合格すれば入学できたことが認められ(前掲浅野順一、水野誠の証言のうち右認定に反する部分は採用しない。)、しかも原告が神学科に編入学した前年の昭和四五年度以降は、神学科のA・Bコースの区別さえも廃止されたこと前記のとおりであるが、前記「神学科のしおり」および「神学科通信第九号」の記載は、A・Bコースの存在を前提とすることが前掲甲第一二、一五号証によつて認められるその前後の文章から明らかであること、(2)〈証拠〉によれば、神学科においてはA・Bコースの区別の廃止された後必修科目を大幅に自由化して、学生個々の関心と必要にしたがつて独自の専門内容の主体的編成を重んずるようにしたことが認められること、(3)〈証拠〉によれば、昭和四五年度および昭和四六年度の「授業要覧」には「受験資格取得のための選択必修科目は次のとおりとする。日本キリスト教団教師検定〔原則として大学院修士課程を修了するものとする〕……」とあつて、右教師検定受験資格取得には原則として修士課程の修了を要する旨の表現となつていることが認められること、(4)〈証拠〉により被告大学が伝道神学研究志望者の修業年限を六年とする制度を採用していないことが認められること、(5)〈証拠〉によると、被告大学の学部への入学(編入学)志願と大学院への入学志願とはその手続が截然と区別されているところ、原告は神学科三年編入学の通常の手続を経て入学したことが認められ、

右認定の各事実に照らすと、前記刊行物の記載の存在を含めた前叙(一)、(二)の事実からすれば原告主張の特約の成立を認めることはできず、かえつて右のごとき特約は成立していないと認めるのが相当である。

(四)  なお、〈証拠〉によれば、原告は神学科への編入学受験手続に先だち、昭和四六年二月頃神学科主任田島信之から、伝道者になるのであれば、被告大学は神学について学部と大学院と合わせて一貫教育をしているので、当初から修士課程に入学するよりも、先ず神学科において神学の基礎教育を受けてからした方が十分勉強することができると説明されて、神学科三年に編入学を勧められ、これに従つたものであることが認められるけれども、右は神学科主任が原告から入学後の経済問題等を主とした私的の相談を受けた際に、原告に対する進路指導として助言したに過ぎないものであることが前掲証拠によつて認められるから、このことをもつて、原告主張の特約成立の根拠とすることはできないといわなければならない。

3 以上説示のとおりであつて、他に原告主張の特約の存在を認めるべき適確な証拠はないから、右特約の存在を前提として被告の入学試験施行義務の存在確認を求める原告の第一次請求は理由がないというべきである。

(なお、原告主張の前記特約が存しないにも拘らず、原告が第二次請求において主張するように被告が修士課程の学生募集を停止したことをもつて違法ということができるのならば、その場合にはむしろ被告は原告に対し試験施行義務を負担しているということができる理である。

しかるに、原告は第一次請求の原因として右のような主張をしていないのみならず、第二次請求に対する判断において後に示すとおり被告が修士課程の学生募集を停止したことにつき原告の主張するような違法の存することは認められないから、右の理によつても結局試験施行義務の存在することは認められないことに帰する。)

三第二次請求について

1  原告は、被告との間の就学契約上の特約が認められないとしても、被告の学生募集停止は、本件理事会決定が手続的および実質的に違法であるがゆえに違法であり、これによつて原告は精神的損害を蒙つた旨主張して不法行為に基づく損害賠償の請求をする。

しかし、第二次請求は右のとおり原告が就学契約上の特約によつては被告に対し修士課程の学生募集をすることを求める権利を有しないことを前提とし、かつ原告は右のごとき権利を有することにつき他に法律的根拠を主張するのでもないから、原告の主張によつてみても原告が修士課程の学生募集に関して現に有する地位は、被告に対し試験の施行を請求し得る法律上の権利ということができず、事実上期待利益とでもいうべきものに過ぎないこととなる。

そうとすれば、原告は被告の学生募集停止の違法をいい、これによつて蒙つたとする損害の賠償を求めることのできる法律上の権利を有しないものというべきである。

のみならず、原告が違法行為として主張する被告の学生募集停止は、すなわち学生を募集しないという不作為にほかならないところ、右のごとき不作為が違法と評価されて不法行為を構成するには、その前提として学生を募集するという作為義務が存する場合でなければならないから、被告の学生募集停止を違法というには、被告が原告主張の特約とははなれて、法律上一般的に学生募集義務を負担していることが前提要件として必要とするものと解すべきである。

そして、被告が右のごとき義務を負担しているか否かは、あくまでも被告学校法人(より正確には外部に対する直接の行為者たるその代表機関)についてみるべきものであるところ、原告は被告学生募集停止の違法をいうけれども、その実質は被告学校法人の内部的な意思決定機関に過ぎない理事会のなした本件理事会決定の手続的もしくは実質的違法をいうのみであつて、被告学校法人の前示のごとき一般的な法律上の作為義務の存在、内容、根拠等については何ら主張するところがないうえ、法理上も被告学校法人が右のごとき作為義務を負担しているものとは解することができない。

すなわち、学校法人の設置する私立学校は、その特性に基づいて自主性が重んぜられ、公の性質をもつた施設として必要な法的規制を受けるほかは、その建学の精神に則つた自律的運営に委ねられている(私立学校法第一条参照)ものである。したがつて、学校法人がその設置した学校を経営するに当つては、その公共性から要請される法的制約の範囲内において、自主的に教育方針を決定し、経営政策を画定し、それを遂行してゆくべきことは当然のことであり、学部、学科、構座、科目等の新設または改廃、職員、学生の定員数の増減等も所轄庁の認可を要すべきものがあるほか、すべて学校法人において任意、自主的に定め得るし、本件のような学生募集の停止についてもまたこれを異別に解すべき本質的差異はないというべきである。要するに、これら自律に委ねられた事項については、学校法人の業務として理事会において自主的判断に基づき決すべきであり、第三者の介入すべき余地はないのであつて、このことは、学校法人は契約その他の法律関係に基づく場合を除いては、一般的に第三者に対して学校経営に関し何らの義務をも負担するものではないことを意味するものである、しかるに、原告主張の就学契約特約の存在の認められないことは既に判示したところであり、他に被告と原告との間において修士課程学生を募集すべき被告の義務を生じさせる根拠となる法律関係の存在することも認められない。

してみれば、原告の第二次請求は既に以上の諸点において失当であり、原告の主張する本件理事会決定の違法は不法行為の成否に関係なく、右違法事由の存否については判断の要をみないというべきであるが、念のため原告の主張に即して右の点に関する当裁判所の見解を次のとおり付言する。

(一)  手続的違法について

原告は、本件理事会決定は大学院学則所定の大学院委員会および研究科委員会の審議を経ないでなされた瑕疵があつて違法であると主張する。

〈証拠〉を総合すると、学生募集停止に関する件については教授会および研究科委員会の審議は経たけれども、大学院委員会に対しては招集権者たる学長の判断によつてその審議に付されなかつたことが認められる。

しかしながら、大学院委員会は法律上直接、設置が義務づけられているものではなく、前掲各証拠によると、被告の大学院内部における議案審議の便宜上設けられた組織であり、しかもその構成員は教授会の構成員をも兼ねていることが認められるから、具体的議案につき教授会のほかに大学院委員会の審議に付するか否かは、被告の内部における教授会と大学院委員会との間の権限分配ないしは議案審議方法の運用の問題に帰するものというべきであり、そうとすれば教授会の審議は経ている以上、招集権者である学長の自主的状況判断によつて決せられて、必要がないとして大学院委員会の審議には付せられなかつたとしても、その当否はともかく、これをもつて本件理事会決定が直ちに手続的に違法となるものとは解することができないというべきである。

(二)  実質的違法について

原告は、本件理事会決定は理事会が学内におけるキリスト教に対する理事者側と異つた信仰、見解を建学の精神に反するとして、かかる信仰、見解に基づく教育活動等を排除することを意図してなされたものであつて、教育基本法三条、九条に反し、学問、宗教の自由等を侵害し、公序良俗にも反して違法である旨の主張をする。

そして、理事会が右のごとき対立する信仰、見解を建学の精神に反するとして、かかる教育活動に対する対応策を講ずる必要があるとの判断に立ち、これを理由の一として本件理事会決定に至つたものであることは、被告の主張および〈証拠〉によつても十分これを肯認することができるところである。

しかしながら、学生の募集停止をすることの是非は、前示のように直接被告の経営にかかわり、しかも経営の根幹に属する問題であるうえ、対立する信仰、見解のいずれが正しいか、いずれが建学の精神に合致するか、対応策の必要の有無、対応策の態様、程度如何等の問題とも必然的に関連する問題であつて、事の是非を決するためには経営上の必要の有無はもとより、すぐれて広く深い宗教的、教育的視野に立脚し、専門的かつ場合によつては抜本的ともいうべき検討判断に俟たなければならない問題というべきである。そうとすれば、いかに原告の前示のごとき利益の擁護を配慮し、学校の公共性を重視し、原告の指摘する学校教育法の諸規定、学問、宗教の自由等の理念をも参酌し、これらと比較考量しても、なおかつ、かような問題こそ私立学校の前示特性にかんがみれば正に被告の内部において対立する諸要因にも十分配慮をめぐらしたうえでその自主、自律的判断によつて決することを期待するのが相当というべきことであり、かつ右のような方法によつてのみ決するのが相当というべきことである。換言すれば、このような問題に関しては法といえども容喙して是非を論決すべきではないし、また実際上もそのようなことは法のよくなし得るところではないといわざるを得ない。もとより、このようにいうことは自主、自律の名の下に恣意、独善を許容する趣旨のものでないことはいうまでもないけれども、本件理事会決定がその当否はともかくとして前示のとおり一応の理由を具備している以上は恣意、独善というには足りず、そうであるかぎり公序良俗に反するともいうことができないというべきである。

してみれば、本件具体的事情の下においては、被告が学生募集の義務を負担するということは法律上も社会観念上もなおさらいえず、したがつて、本件理事会決定が義務に反して違法であると断ずることはできないものといわなければならない。

2  以上の次第で、被告において違法に修士課程の入学試験を施行しないことによつて原告が蒙つた精神的苦痛に対する慰藉料の支払を求める第二次請求は、その根拠を見出すことができないから、その余の点につき判断するまでもなく、理由がないというべきである。

四結び

よつて、原告の本訴請求はいずれも理由がないので棄却するほかなく、訴訟費用の負担について民事訴訟法第八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(内藤正久 真栄田哲 田中壮太)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例